昭和58年09月22日 研修



 神様の合楽にかけられる願いと言うか、合楽でお道の教師を志して頂く者への願いと言う様なものを、朝晩ここに皆んなの事を先にお願いするんだけれど、そん時に今日は、今相撲があった、最近の相撲であのなんとか言う、こうぼうやまと言う私はもう、こうぼうやまというのは高い望む山と書いて、力士の名前を言うて下さることは、力という事であったり力持ち、あの人はお互い神様をどれ程信じれれるかという、信ずる力というてなら力が強ければ、力だけではいかんのだけれども。
 そこにはやはりまぁテクニックもいれば、いわゆる技もいる訳なんだけれども。神様の合楽に掛けられるものは、勿論のことだけれども合楽で修行している者、一人一人の上に特別なこう深い縁が出来て行っておると言う事が、神様のいうなら高度な望みと言うか、高望とかいんとか、高い願いと言う、高度な願いと言うが一人一人に掛けられておると言う事が、だからあのう今日その事だけを聞いて貰おうと思うたけど。
 その自覚にお互いが立って、本当に神様の願いに応え祀る事の出来れる。信者氏子の中にも取次者としてのお育てをまぁ頂いておる訳だから、神様がどういう深い、又は高い思い願いを持って、一人一人に掛けられておっても、それをやっぱ受ける側の自覚がまた大事、その受ける者の自覚と神様の特別白羽の矢をを立てられた、それは様々な始めから金光様の信心好きで、お道の教師を目指したなんてものはない。
 親が教師だから、教師にならんならんとかではないだろうけれども。結局お道の教師を皆さんが学院で御誓いをなさったように、生涯命を捧げておられるわけで。それが文字通り私のとこにその、合楽に掛けられる願いともうちょっと、皆んな一人一人に掛けられる願いと言うものは、ここだけは高い願い望みを持っておられると思う。だから合楽では本当の信心の稽古をさせてもろうたら、まさしく神の手にも足にもなれれる。
 私しゃ確信するけれど、なら皆さんもやはりどういう事から、お道の教師を志したか別として、その別の教師を志さなくてはならなくなって来た、その過程の中にもそりゃ一人一人もう千差万別と思うけど、もう微妙な神様の働きを受けて、今日があるわけ。それで銘々が自覚に立たないとね、神様のいわゆる御神願に応え祀りたいばっかり言うたり思うたりしてるだけで、ただここで修行しておるだけでは。
 まぁそこで自覚に立った所から、あぁ私が最近神様にお願いしてる様に、まず信心の合楽の研修だから、お道の教師としての修養を。勿論信心修行、この三つが本気でやはりなさらなきゃならないと言う事なんだけれどね。山はいうなら高め支持頂いた様に、皆んなが合楽の場合はもう焦点がもうはっきりしとるね、あれがない焦点がああでもなかろうかこうでもなかろうかと、もう迷いどもがない。先だってもある事をお願いしょったら、その事を頂いて、側転かと言う事を頂いた。
 側転かと言う事はいろいろある、ここで頂いとるのは混ざり気がないと言う事なんだね。例えばじょうご米の酢、酒にアルコールを入れたり薬品を入れたりする。酒がないんでと言う時に無添加という。ほかにもいろいろことばはあるね。無添加最近テレビなんかでも無添加と言う言葉が出て来る。私はそういうふうに頂いた、とにかく合楽の信心はもうこれどの様な場合であっても、いうならば問題が問題でないだけの頂き方、煎じ詰めると一切信愛であり。
 それをいよいよそうだと確信出来れる事実の実験実証は、成り行きを尊ぶとか、大切にするとか、どろの心で受けるとかと言われとるわけなんだけど。無添加と言う事はどんな場合であっても。そこに焦点をおいたらいいわけ、腹の立つ問題であろうが、心配になる問題であろうが、どんなその問題あれ、びっくり予期せぬことが起って来る場合もあろうが。どんな場合であっても、そこに御神願を感じて、それに応え祀ると言う事はどう言う事か、結局もっと神様を信じれれる、もっと深く広く分らしてもらえる手立て。
 そして神様との間に熱願そこのルートが生まれて来る。それをまぁ合楽では、天地との交流と言う事に、合楽の場合は、ただ和賀心に神がござるから、おかげになるのじゃという様々な信心の形態と言うかね。仏教的に言うキリスト教的に言う、様々なならそれが、お祝の形になったり、まぁ私たちが考えるととんでもないところに、焦点を置いてその修行を( ? )伝えて行くと言う合楽の場合はもう、何処までも天地との交流の度合いと言うものを深めて行く。
 信心の喜びを楽しみをもつような、生き生きとしたような心を生まれるためにも、修養に信心の研修にいわゆる信心に修行、信心修行にね。ただ励ましてもろうてその焦点になるところは、天地とのいわゆる天地の心を心とする生き方、それは天地との交流による。その天地の交流はなるほど天の心で、地の心でとそれを、まぁ黙って修めると言うか。教祖は打ち向かうものには負けて時節に任せ、この宗教はまたたぐらぬと思うですね、この御教えだけでも、打ち向かうものには負けて時節に任せ。
 もう時節に任せずに自分に。例えば仏教的にいうたら、まぁ仏教の最高峰と言う、法華経の信者たちは折伏と言う、まるで喧嘩腰の教導姿勢と言うのがある。キリスト教なんかでもこの頃からテレビで、あれはなんちゅうかシルクロードの道中に大きな町があって、そこにはキリスト教の以外の、例えば野盗だとしてそれを暗殺する、暗殺断を養成した町だという。そういう事で宗教の中にあっていいだろうかと私しゃ思うけれども。それを何千年やっぱ続けて来とるのがキリスト教でしょうが。
 これは皆んなが一つ本当にあのう、あのう思わなきゃならん事は、金光教という信心と言うものは、いまは毎日あ、私そこのマイクに宗教と言うのを読んで貰っているけど。もう頂いても頂いくほど人間教祖を感じるですね。私し自分自身の信心に一段こうふたかかしの様なものを。あみんな研修の時間が。あれをなら私がここ30数年の信心を皆さんが思い浮かべながらあれを見てご覧。
 あのう本当に間違いじゃないなと言うものを感じるのは、合楽の場合は間違いじゃないなと言うものを、引いたら足す、足したら掛けて間違いなという答えが出て来る様に。合楽の場合はもう絶対。実験すれば実証が生まれて来るんです。だから修行もしたけど実証、実験もないならね、こんなつまらんしきはない合楽の場合。だからどんな些細なことの中んでも、自分の身、心の小さい動きやら、あの小さい事柄の中にでも。
 それをずっとこうキャッチ出来れる頂くためにも、心が生き生きと神様に向かっておらなければならない。そう言う様な事はみんなよく分っているから、まぁなら本当に神の願いに応え祀れる。誰かの胸中を祈っておられるだろうけれど、そしてそのう手立てはもう合楽理念と思って進めて行く以外ない。天地の道理、天の心はこうだと、地の心はこうだと、分ってそれを漠然と知ったり漠然と行うていっとるのでは。
 弓矢をを間違いのない標的にこうやって、向かっておるだけであってこれではそこまで届かない。これが満月の様に引き絞られて、そして間違いない的に、的中していく事の為には、この満月の様に引き絞ると言う事が、信心修行には大事なんだ。だからそこん所を私しゃ貫くということ言う訳。例えばならひとえに貫くと言う事。このことをと自分で頂いてたらそれを貫いていくそのものが、血肉になっていく喜びがそれが一つが二つ、二つが三つと、段々本当なものになって行きょる。まぁひがけなんてね。
 神様の高い望みをお互い一人一人に掛けられておるんだと。言う事を御知らせに頂いて。その時間であるなら近くに立った修行が為されない。それは自分で、合楽では、さぁ朝さぁ皆んな起床だ。こういう修行生と一緒になってすると、まぁ銘々がまぁ本当にこころしていかんとやりそこなうもんね。漠然と修行は出来とるようだけれどももう何年、5年なった、10年なった言うただけではでけん。
 なんかそこにまぁいうなら実験実証が確かなものになって、それを積み上げて行く修行の喜びと言うかね。そのためにはなら折角御縁を頂いて合楽の信心の稽古をさして頂いたものが、まぁ金光教が絶対とか間違いないとかというものの、あらゆる角度から勉強しのがわかってくる。分ってくるなかでも、合楽がまぁ金光教の信心の、まぁいうならば、まぁ人が助かる事さえ出来ればという、教祖の御信心のその、神髄に触れてしかも天地との誰しもが、交流出来る手立てが説かれており。
 それをまぁ実験しておると、いうことにならなきゃならないと思うね。金光教の中にも色々様々ないうならば、自由にならないものがやっぱしあります。けども断然やっぱ、親も分らないと思うとるけれども。一生思わないなりにそう思うておる中にはあるし。合楽の場合にはもう実証をもって間違いじゃなかろうかと、いうふうにまぁ仰られて、皆んなも間違いのないその信心を身に着けていかなければできん。
 金光教の中ではもう合楽の出来形と言うのが、どこよりも先ず本当な、その本当なものを自分達も身に着けたい。と思う心が先ず頂かなきゃならん。それだってね。テレビでキリスト教の伝道なんとかという所があって、そこのまぁ会長さんのような人が。金光と言う人と対話があってた。勿論信心問答があってた、それでもうその人がキリスト教、私が金光教の中でならせられてキリスト教でなからなにゃでいろいろ、まぁつまらん話じゃったと思うけどね。
 結局終わったら神様はなんじゃったかね。愛の仮面、キリスト教愛の仮面、ギゼンとギマンのキリスト教、ようとあのこう、まぁ第三者の目であの観察してみてご覧、宗教だからあれだけの信者がおるとだから、あれだけ立派な伝道やら信者が多いのだから。間違いは絶対ない、もうようと見よると怖いよ。いや極めて行ったらもう自殺するより外になかちゅうごたる。一番キリスト教は。
 そしてもうあのう悟り澄ました様なああいう記事しんかが多いですキリスト教には。ギマンですいうならば、マリア様のなんかしてこれギマンの第一、それを自体を信じなければキリストが成り立たないところが、私はおかしいと思うがね。今日はねギマンとギゼンの(  ?  )こんなことはこりゃ人に話すことじゃないだろう思うけど。まぁ内内だから加勢頂いた言だから、話よっちゃから、ちょっと是を併せ持ってキリスト教徒いうものを、金光教の接待とか間違いないとか。
 いやぁもうほんとに人間がなす宗教、教祖金光大神に現れた神様が、まぁもうなんちゅうか人間教祖のところまで、天地の神の神様がさがってござる。そして一緒に育ててござる神も育ってござる、金光大神も育ってござるという感じがするですね、いわゆる金光大神の進化のこのことから、また神様の様子が段々中身がおかしい様な何々性分とかね。出て来るでしょ。いろんな神様が出て来るでしょう。そういうものが段々統一されてくるこの過程がね。
 金光大神がいよいよ教祖生神金光大神の人間としての、最高神格を受けられていく為には教祖様もじゃけれど。金光、天地の神様ももう骨折っておられる模様が感じられます。これは例えば教祖が神様の言葉に絶対であった神様の仰せに、度合いに仕ると言う仰っておられる、これはあれがなら神様ではない人が言うたら、あんなに素直にゃはいと言わなかったんだろう。あれはあの神様だから又神様の言われる事、そのいろいろ百姓ひとつして行く上にも、間違いがない何時いつはけんを見せて、けんを見せてござる。
 いついつはそしてやっぱり教祖の神様を、腹が痛い時もありゃ下痢をなさった時もなさっとる事もあれば。まぁいろいろ、まぁ経済が歳が身体がこういう状態の中もやっぱ通っとられる所に、いわゆる人間教祖改めてまた感じた訳で、そういう中に神様は今度は又神様は方が一緒になってござる。そうして神様と共に、こう進化がちょうそして行っておられる。その金光教のだから間違いなさと言うものを、まぁいよいよ掛けて行くわけだけど、その中でもなら合楽で言う天地との交流をである。
 神様と天地と天地金乃神と同根とこう教祖様は仰っておられるが。天地金乃神様と私し共とが交流し合える、しかも誰でも間違いなく進んで行かれる。それはいま合楽で教えられておる事を一本に絞って。あれこれと迷う事も、あぁでもなかろうか、こうでもなかろうかと、迷う事なかばい、どんな思いであってもそこに焦点をおいていく事が(えら)無添加、もうほかん事にようりょう得ずに、まぁどんな場合であってもそれは辛抱もいる時があります。3年掛っても5年掛ってもそういう姿が、ま、あります。
 けれども神様必ずあのう、どんな場合であっても腹を立てるな、神が顔を洗うてやるとこう教えられる。この実験を私しゃ30年間の間に徹して来たがそれが10年後20年後にまた30年後にこう実を結んでいっておる事思う時にね、別世界に打ち向かうものにゃ負けておりゃよかばい。そして時節に任せていくその任せとる間が今言う、一心信心の修行がいるまたは修養にまたは研修に。ただことに努めて行けば良いと言う事になる。一人一人をいわゆる高望山と言う力士を見せて下さったと言う事は。
 神様が一人一人にかけれれた、高いそういう願いをかけられておる、それはとりわけ合楽の中でもしつなき教師を志す者は、特に神様が地を低うして願ってよいものなら願いたいと思うてぎざる。そういう形が許されるなら、神が頭をさげてお前たちがいうことを聞いてくれるなら、頭をさげてもいいからと。そこで神様に頭をさげさせる前にね。その自覚に立つと言う事。そういう高い願いのもとを抱えている私達いつも自覚に立っての修行。そしていうならいわゆるお相撲さんが力が必要なように。
 いわゆる神様は信ずる力をあらゆる角度から吸収してその力をなら。あの高見山の様に力をころころ負けるでしょうが。だから力だけでもいかん。そこにはやはりあのうテクニックいれば、その技も練習して身に着けなければならんて事になる訳で。いよいよ皆さんが本気でやとらんと言う訳ではないけれどね。もう一段なんかピリッとくるものまぁいうなら、弓矢をこうしとる時にゃですね。本当に満月の様に引き絞っておるかどうか、又は今も言った様に合楽の場合は絶対の的がそこにあるのだから。
 是に向かって進んで行く以外ないと言う事。今日信心対象を改めてまぁいっちょうね、思うてみてご神願に応えていきたいとね。どうぞ。まぁその色々沢山あったけれど。帳面に控えておるから、その帳面帳面持ってこうと思たが忘れた。私が只今言った様な無添加ということとその高望山ということに付いて研究してみてください。分らん所があったらまた聞きに来てください。今日来ていない人にゃ今日の話を聞かせて下さい。
   どうぞ。